ハタチ
4月23日、僕は21歳になった。
21歳になったというよりかは、20歳が終わってしまったという感覚が強かった。
そう、ハタチが。
22日の23時45分頃、河合塾の仲良し男子グルでグループ通話が開かれていたからなんとなく参加した。
「みんなはハタチの1年大切にするんだよ。」
しみじみとそんな言葉が出てしまった。
彼らは一浪で僕よりもひとつ年下で、これからハタチになっていく子たちだ。
だからといって年上みたいに振る舞うことはないし、年上と言えるような立派な人間でもない。
ただひとつ彼らに教えられることは、ハタチの1年を無駄にしてしまったことへの後悔、それだけだと思う。
彼らの未来は明るい、僕とは違って。
ハタチと21歳は全然違う。
0時をまわり21歳になった僕はよりそう感じた。
「ハタチ」という言い方が違うから、それだけじゃなくて、何かはわからないけどハタチはとても特別なものな気がする。
華やかな気持ちでハタチを迎えたかった。
明るく充実したハタチを過ごしたかった。
成人式、同窓会だって出たかった。
そんな特別なハタチの全てを犠牲にしたにも関わらず、今21歳になった僕は受験に失敗しFランに行くことになりしかもそのFランですらコロナで足止めされている。
そっか、ハタチを超えると誕生日を迎えることがこんなにも悲しいものになるんだな。
こうやって歳をとっていくんだな。
残りの人生は消化試合。
J2降格が確定したあとに失意と絶望のうちにやる残りのリーグ戦のような消化試合の人生を送る。
人生の全てをかけた高三のあのとき
高校を卒業してからの人生に何も希望なんてない。
高校生活がぼくの全て。
だから卒業と同時に死にたい。
よくそう言っていた。
でもそう言いつつも新しい何かが自分をまた熱くさせてくれる。
心のどこかでそう期待していた。
でも残念ながらそんな日々はやってこなかった。
むしろ思ってた以上に絶望的な日々が今も続いている。
21歳はハタチの1年よりは少しでもマシな1年になればいいや。
その程度でいい。
もう高望みなんてしない。
二浪Fラン生の逃亡記〜第1話〜
奨学金の申請をするためにFランにいった。
入試成績優秀の奨学金なのにどうしていちいち書類提出だのウェブ登録だのしないといけないのか理解できない。
そのうえ100字以上で奨学金をもらう理由を書けって、おまえらがくれるって言ったからもらう以外に理由ないだろおとなしく手渡ししろよこのFランが。
てなわけで自転車でFランにいった。
自転車を降りて受付の校舎を探すけど、なかなか見つからない。
狭そうに見えて案外キャンパス広かったんだな。
通りには桜が満開だった。
建物も普通にきれいで、芝生の中庭とかもあった。
奥の方はこんなんになってたんだな。
受験のときはこんなに奥まで来なかったから知らなかった。
もっと馬鹿な中高を出て二浪なんかせずに来てたら、そこそこいい環境だったのかもしれないな。
そんな感情がふと頭によぎった。
でも残念ながらそんな世界線に今の僕はいない。
考えれば考えるほど鬱になった。
どうしてこんなFランに入ることになってしまったんだろう。
そんな感情がまた込み上げてきた。
キャンパスに入るとほんとに鬱になる。
やっぱり僕はこの環境が向いてないようだ。
やめたい、早くやめたい。
そんな僕の思いとは裏腹に満開の桜はむしろ哀愁のようなものを感じた。
二浪Fラン生の逃亡記 〜プロローグ〜
気が向いたらこれから日常をなんとなーく日記みたいな感じで綴っていこうと思う。
まぁ適当に見てくれればいいよ。
見てて鬱になったらブラウザバック、これは約束ね。
4月1日、某Fランのガイダンス当日。
前日からほんとに鬱だった。
行きたくないと思いながら寝て、目を覚ましてもやっぱり鬱だった。
歯磨きしてシャワーして朝ごはんをバカみたいに食べて、とりあえずここまではいつも通り。
で、いつもならここから髪のセットと顔面の修復をするわけなんだけど、別に友達作る気もないしどうでもいいやっなった。
で、顔面の修復だけちょいして、髪はてろーんってしたまま家を出た。
とは言ったものの自転車が全然すすまない。
漕ぐ気にならない。
行きたくない。
着いてしまうとほんとにFラン生になってしまう。
とりあえず遠回りしよう。
なんて感じでゆっくりゆっくり自転車を漕いだ。
あ、これ間に合わないやつじゃん。
まぁいいか、遅刻なんて慣れてるし。
この子も遅刻かな、小走りしてる。
ん?チャリ漕いでるのにこの子との差が縮まらない。
あ、おれ行きたくなさすぎてチャリをこぐスピードが女の子の小走りと同じになってんのかわろた。
帰りたい。
素直にそう思った。
で、ガイダンス会場の講堂みたいなところに案内された。
前で教授がしゃべってる。
部屋には300人くらいは人がいるな、きもちわる。
喋る教授の前を横切りながら指定の席に着いた。
すると助手みたいな人が学生証を持ってきた。
やめろ、Fランの学生証なんか見たくない。
すぐに学生証を裏返した。
机の上に置かれたパンフレットとか冊子には全部Fランの名前が書かれてて、今まで味わったことのない嫌悪感に襲われた。
ものすごい拒絶反応を起こしていた。
自分でもびっくりした。
鳥肌がたって、手が痙攣して、臓器がぞわっと浮き上がる感覚になった。
教授の話は履修登録の話に。
すぐさまホームページを開いて必修の時間割を確認。
土曜の三限に必修が入ってる。
ふざけんな、バイトさせろ死ね。
平日の二限終わりからバイトの午後勤に間に合うか、乗換案内を開いて調べた。
チャリで最寄りまで駆け下りたら間に合いそうだから平日も大好きなバイトに行ける。
しかも水木金は必修が一限しかない。
ちょっと気持ちを持ち直した。
帰りは帰宅RTAして間に合うかやってみよ。
ガイダンスは思ったより早く終わった。
列ごとに退室をさせられた。
入学おめでとうございますとかいう吐き気のするようなことを言ってくる上回生の勧誘を全無視してキャンパス内を駆け抜け、自転車にまたがった。
4番目の列だったのに誰よりも早くにキャンパスを飛び出た。
坂道を駆け下りた。
雨が顔にあたって前が見えにくい。
スリップもしそう。
いつもより多めにブレーキを踏みながらも、10分程度で駅に着いた。
早い、これなら平日もバイトができる。
なんとしてでも水木金は二限までしかとらないように時間割組もう。
もちろんサークルも部活もやらないし、文化祭は不参加。
Fランでの馴れ合いなんて時間の無駄だからいらない。
懲役4年のFラン生活が始まった。
スタートライン
これは1つ前の「道」の続き。
河合塾に入ってから今日までのことを書く。
ここからも辛いことはたくさんあったけど、ここからの辛さは未来を明るく照らしてくれるものに変わっていった。
9月
9月の後半、思い立って面談をして2日後には入塾していた。
ただ1つ前のブログでも言ったように恐ろしく身体が衰えていたから行くだけでも大変で授業が終わるとヘトヘト。
とにかく社会復帰へのリハビリだと思って頑張った。
まだ精神的にも辛かった。
毎日授業が終わったあとこの場所で人生終わったなぁと思いながらぼーっとするのにハマっていた。
ある日ここでぼーっとストリートミュージシャンの歌を聴いてると突然涙が溢れてきて、隣にいた見知らぬおばあちゃんに心配そうに話しかけられて30分くらい話したこともあった。
10月
たまたま席に隣になった男の子と意気投合し仲良くなった。
その子はクラスの中心的な誰とでも仲良くする子で、その子のおかげでたくさんの人が話しかけてくれるようになり、友達がたくさんできた。
ほんとにこの子には感謝している。
そしてあとから分かったことだけど、実はこの子も二浪だったらしい 笑
この頃から志望校に悩み始める。
法学部になんとなく行きたい自分と、阪大ならどこでもいいやと外語にしようという自分が心の中で葛藤を起こしていた。
それを相談しに英語の木下先生のところに相談しにいった。
そこで先生に二浪した経緯や引きこもりになったこと、コンビニで休憩しながらなんとか河合までたどり着いた話をするとあまりの壮絶さに先生もビックリしたみたいだった 笑
そこで先生が僕に言ってくれた言葉が僕の浪人生活を大きく変えた。
「君は1回引きこもったことで人の弱さを知った。世の中には困っている人がたくさんいるから、君はそんな人の弱さに寄り添える弁護士になるといいと思うよ。」
僕の中で道が切り開けたような気がした。
ここで僕は外語という妥協を捨てて法学部を目指そうと決意した。
友達がたくさんでき、いい先生や担任と出会い、志望学部や将来の夢も決まり、20歳無職引きこもりから少しづつ人生が変わるような感覚が芽生え、少し精神的にも安定した。そんな1ヶ月だった。
そして10月は忘れられない出来事があった。
ハロウィンの日、少しづつクラスに馴染み始め、二浪であることもある程度周りに明かせた頃だった。
お昼休みにお弁当を食べてると色んな人がハロウィンだからということでお菓子をくれた。
そして仮装してる友達をみんなで見て笑ったりしていると不意に引きこもっていた頃の自分が頭に浮かんだ。
毎日部屋の白い壁を見ながら1人で絶望していたけど、今自分はたくさんの友達に囲まれて笑っている。
自然と笑顔になっている自分が嬉しくて涙が出た。
周りに気づかれないように下を向きながらお弁当を食べた。
人の温かみを身をもって体感した瞬間だった。
11月
10月のおわりくらいからなんとなく阪大法学部は厳しいような気がして、志望校をどうしようか考え直した。
これは去年志望校を京大にしたまま突っ走って大失敗した反省から、早めから現実的に目指せる志望校を探そうというような運びになった。
そして見つけたのが北大だった。
夏に頑張った分、夏模試で数学の結果が良くて判定も良かったし、2次試験の形式が数学を活かしやすくて自分にぴったしだった。
ここで北大志望に「自分の中では」決まった。
そう、自分の中では。
親が猛反対した。
11月は冠模試があり1ヶ月に7回も模試をうけ、親と志望校で揉めながら勉強をしないといけなく、かなり精神的に辛い時期だった。
ただこの頃から毎日9時半まで自習するようになり、かなり必死に勉強できた時期だった。
12月
模試が一通りおわり、安堵からかセンプレの次の日からの1週間は熱を出した 笑
そして怒涛に模試がかえってきた。
なんとなく阪大オープンの冊子を開くと、法学部の4位のところに高三のとき1番仲良かった二つ下のサッカー部の後輩の名前があった。
悔しくてしょうがなかった。
勉強に手がつかなくなり担任に話を聞いてもらおうと行くと、話してるうちに涙が込み上げてきた。
別室で話すことになって、そこで久しぶりに人前で泣いた。
熱を出したり志望校のことで親と揉めていたり成績が伸び悩んでいたり安全策の市大に下げるかどうか葛藤していたりとか、精神的にも身体的にもボロボロの時期で、そこに後輩の冊子掲載が目に飛び込んできて、かなり追い込まれた。
もしかしたらこの時期が1番辛かったかもしれない。
でも今振り返ると、ここでの辛さは、必死に自分を変えようと頑張っているからこそ感じれる辛さで、引きこもっていたときのただ絶望するだけの辛さとはちがい、すごくいい方向に自分が進んでいる証拠だったと思う。
そして三者面談で自分の北大への思いを親に伝え、これまでの頑張りも認めてもらい、正式に北大志望になることができた。
この頃から友達との会話でも二浪や引きこもりだったことを自虐ネタとして話してみんなで笑うようになっていた。
これは、もう自虐できるくらいに今の自分を受け入れることが出来たってことだと思う。
ほんとに大きな成長だった。
ここで僕は大きな壁を乗り越えたような感覚がした。
そして今日はセンター五日前、最近思うことがある。
振り返ればほんとに辛い辛い1年だったけど、それを乗り越えて今自分はここにいる。
今自分は大きく成長する道の途中にいるのかもしれない。
GReeeeNの『道』という曲の中にすごく響く歌詞がある。
「楽しい日々だけが人生じゃない。唇噛みしめる日々も必要じゃない?きっとそれが分かれば それが君のスタートで足かせ外してさらに前へ」
激動の20歳の1年間、たくさんの辛いことを乗り越えてきたこの1年がこれから新しい人生へのスタートラインなのかもしれない。
道
2019年ぼくは世界の終わりを見た。
受験に落ちた3月のはじめ、あの日から隙間なく毎日が辛かった。
この1年間、色々な辛さを味わってきた。
でもセンター5日前のいま今振り返ってみると、その辛さの感じ方がいいものに少しずつ変わってきているような気がする。
長くなるかもしれないけど、今この瞬間しか綴れないことがあると思うしそれを残しておきたいから文章にしようと思う。
4月
毎日が絶望の日々だった。
人生が終わった。そう思うだけで辛かった。
毎日ただ部屋の白い壁に囲まれて人生に絶望する、ただそれだけの毎日だった。
そんな絶望のなか迎えた20歳の誕生日。
ただただ虚しかった。
この頃、いまから考えると思い切った選択をしたなと思うけど、二浪宅浪日本史初学独学だったから0から日本史を勉強していた。
この4/23という日付をどんな気持ちで書き込んだのだろうか。思い出せない。
そして桜を見ないまま春が過ぎていった。
5月〜6月
5月の頭くらい、この辺りから勉強に身が入らなくなる。
毎日ポケモンのアニメを見ていたら気づけば一日が終わっていた。
そんな日々が続くようになる。
それから間もなくして、高校の同期と会った。
思い出話に花が咲きあっという間に時間は過ぎていった。
楽しかった、ほんとに楽しかった。けど、そんな楽しい時間から開放されて現実に戻った瞬間にまたどん底に突き落とされた。
辛かった。
そこで僕は思った。楽しいことがあるとそこからの落差が凄くて現実に戻された瞬間に物凄い虚無感をおぼえる。
それならもうずっと辛い状態でいたらいいやと。辛いことを当たり前にすればいいんだ。楽しいことをなくせばいいんだと。
ここで僕はほんとに家から出なくなった。
20歳無職引きこもりの完成だ。
ちなみにこれはその頃書いたブログ。
そんな感じで気づけば6月も終わっていた。
7月〜8月
駿台の夏期講習に行き始める。
ここでまた勉強を始める。
毎日朝早くに駿台近くのマックまで親に送ってもらい朝早くから頑張った。
ここで数学の基礎からやり直したのはこの後の浪人生活のいい土台になった。
9月
9月の頭、第2回全統記述模試があった。
僕はこの日、受験のときよりもはるかに緊張した。
7月8月とかなり頑張ったからここで成果を出さないとという思いが頭に浮かび、会場までの道でGReeeeNの『道』を聞きながら何度も「自分なら大丈夫やれる!」と言い聞かせて心を落ち着かせた。
数学の手応えは今までにないくらいのものだった。この夏の成果が出た。ほんとに1つ壁を乗り越えた感覚があって嬉しかった。
ただ英語と国語が去年よりも出来ていなくなってる実感があり、なんとなく予備校に行かないといけないという思いが頭をよぎった。
ほんとに思いつきだったけど、そこで突然河合塾に入ろうと思った。
そしてすぐに河合に説明を聞きに行こうとアポを取り、まずは面談をしてもらうことになった。
JR大阪駅を降りて外に繰り出すと異常な暑さに溶けそうになった。
それもそうだ、夏期講習は車で送り迎えだったからこの暑さのなか屋外に出るのは初めてに近かった。
河合に着くまでに4回もコンビニで休憩をしながらやっとの思いでたどり着いた。
ほんとに途中倒れるかと思い、身体的に相当辛い思いをした。
半年引きこもるだけでここまで人間の身体は衰えるのかと…。
そしてここで今の担任と出会う。
初めて話す人とは思えないくらい話しやすくて、高校時代勉強しなかったことや二浪になった経緯など親身になって聞いてくださった。
この丁寧な対応から僕は河合塾に入ろうと即決した。
ここから僕の人生は大きく変わっていくことになるけど、長くなるので一旦ここで切ります。
次のブログからは河合に入ってから今日までの日々を書きます。
じぶんしだい。
河合塾に入ってから驚いたことがある。
それはうちのクラスにはわりと色んな層の高校から集まっていること、とりわけ中間層の公立高校出身の子が多いことだ。
一橋阪大志望の子が集まるクラスだから、そこそこの中高一貫校の人が集まっていると思っていたから驚いた。
その中でひとり、とくに僕が驚きすごいなと思っている友達がいる。
その子は市大志望で偏差値40の市大にもう10年くらい合格した人がいないという公立高校に通っていたそうだ。
もちろん周りは全然勉強しなく、センターすら受けない人がほとんどらしい。
そんな環境で彼は必死に勉強を続けていたそうだ。
学校行事はもちろん参加せず、修学旅行すらも休んで勉強をいていたらしい。
僕はこれはほんとにすごいなと思った。
もしぼくが同じ立場にいたら絶対周りに流されて勉強できないし、そもそもそれなりに勉強する人が集まった環境ですら出来なくて二浪したんだから。
どんな環境にいても自分の姿勢を貫けるそんな彼に僕はものすごくいい刺激をもらった。
そして彼のもうひとつすごいところは、市大志望はほとんどが一つ下もしくは二つ下のクラスに集まるのに、一橋阪大志望が大半を占めるクラスにいることだ。
そんな彼が毎日9時半まで自習していると聞いたので、僕もこれからは彼と一緒に9時半まで残ろうかなと思う。
他にも僕のクラスには刺激をもらえる人がたくさんいるので、ほんとに河合塾という環境を選んでよかったと思っている。
明日もまた頑張ろう。
明日地球が滅べばいいのにな。
計算用紙なくなったなぁと思ってLOFTに買いにいったら偶然高校のとき仲良かった友達と会った。
中3からの仲でいつもバカなこと言って笑ってた友達だった。
高二のときに一緒に初詣に行くくらい仲良かった。
そんな友達だったのに久しぶりに会ったら言葉が上手く出てこなかった。
何を喋ればいいか分からなくて、自分でも訳分からないこと言っていたと思う。
あぁこれが、何かはわからないけど大切な何かを失っている感覚に陥る二浪が失ったものかと思った。
彼は現役で阪大に行ったのだから、もう2年分も差ができた。
いや、実質30年分くらいの差が開いてると思う。
こうしている間にも彼との差はどんどん開いてるのか。
あぁ、死のう。